雑文/Column

栄枯盛衰

2007・11 妹尾 正毅

 日経新聞夕刊「明日への話題」欄に柴田翔氏の「複層的ヨーロッパ」という記事がある。
 45年前、ドイツ留学中の夏休みにアイルランドの首都ダブリンを訪れた。中心街では夏も冷たい風の吹く道端に黒い粗末な毛布を撒きつけた老婆達や少女が黙然と座り、施しを求めていた。パリやロンドンだけがヨーロッパではない、ヨーロッパは複層的だ、ということを衝撃とともに知った。半世紀前の話だが、という記事である。
 私も柴田氏より少し前にアイルランドを訪れ、英国との違いに強い印象を受けたことを思い出すが、今、私がこの記事に補足したいのは、その後のアイルランドのことである。

 20世紀に至まで英国の貧しい植民地であり、戦後も欧州の後進国だったアイルランドの一人当たりのGDPは、今や英国や日本を越え、欧州でもノルウェーとスイスに次いで高い。
 1972年に現在のEU(欧州共同体)に加盟し、積極的な外資導入政策を打ち出し、ハイテク産業の国際的拠点となって高い成長を続けた結果である。
 その事実を知る人は日本でも少なく、それを聞いた人は一様に驚く。このアイルランドも、その後ソ連圏が崩壊して東欧諸国がEUに加盟し、その低廉な労働力が各国で珍重されるに至り、その発展が鈍化し、一つの正念場を迎えつつあるようではあるが。

  柴田氏がアイルランドを訪問されてからの45年間に世界は大きく変わった。現在の若者が70代になるまでの間に、世界は、また日本はどのように変わるのであろうか。

もっと前に気づいて置くべきだったこと(その一)

2007・11 妹尾 正毅

 70代になって、もっと前に気付くべきだったと思うことが幾つかあることを記したい。そんなことは前から判っていたと言われる方があれば、それだけ私より幸せな方だと思う。
 その一は親に感謝せねばと思ったことである。それまで私は殆ど親に感謝したことが無かった。記憶に残るほどに怒られたことも、人生、勉強、就職、その他これといった指導や助言を受けたこともない、感謝するほどの遺産も無かった。
 その親に感謝するようになったのは、70を過ぎて歯医者に歯が丈夫だと誉められてからのことである。身体は親から貰ったもの、何一つ貰ったものはないと思っていたが、実は一番大事なものを貰っていたのではないか。不規則で勝手な人生を送って来た割に未だに元気な毎日を送っている、これも親のお陰ではないか、と気が付いたからである。
 考えてみると、何も言わなかったのも、私を信頼し黙って見守っていたのかもしれない。目に見えるものが全てではない、そのこと位は判っていた筈だが、肝心の処でそれを忘れていた。今になって、親に感謝の気持ちを伝えないままだったことが気になっている。

物事は視点如何で全く違ってみえるということ

2007・11 妹尾 正毅

 例えば国連分担金の場合もそうではないか。日本の国連分担金は全体の19・5%で英、仏、中、露の四カ国(米以外の安全保障理事会常任理事国)の分担金の合計額を超えていた。だか日本は安保理常任理事国ではない。不公平だという反発が生じたのはもっともだが、別の観点から見ると姿が替わって見える。
 各国の分担金の額はGNPを基準に決められる。第二次大戦の終る頃、日本の今日の姿を予想していた国があったか。今日の日本があるのは自らの努力の結果だが、日本を敵として戦った側からすれば、日本が戦後の国際体制にただ乗りした結果とみえても不思議ではない。

 日本の分担率は今年16・6%に引き下げられた。今の予測からすれば、そのうち中国やインドの分担率が日本を抜く日が来る。そのとき日本人はこれで大分減らして貰ったといって喜ぶであろうか。それとも昔の方が良い時代だったと思うであろうか。そのときになって愕然とするのでは遅すぎる。

美しい国構想を考える

月刊FECニュース「視点」平成19年4月号より 妹尾正毅

 安倍総理は美しい国たる日本を目指すと言われる。私も考えてみた。
 美しい国とはどんな国か。第一に、他国の人が美しいと思ってくれる国でなければならない。自分で美人だと思っている人が美人だという訳ではないのと同じである。
 それではどんな国か。人々がそこに住みたくなるような国ではないか。自然の美しさもあるが、それだけでは美しい風景というに止まる。国は人があって成り立ち、住む人の営みによって左右される。トロイの発掘で有名なシュリーマンが日本を美しい国と思ったのは富士山を見たからではない。町並みは清潔で人々が正直だったからである。
 ではグローバル化の進む現代においてはどうか。正義、衡平、共存が存在して人々の心が豊かな、他国の人々にも開かれた千客万来の国ではないか。
 対外援助には金を出すが、外国人は排斥する国を美しいと思う外国人はいないであろう。また、少子高齢化が目立つのを見て美しい国と思う人も少ないであろう。それに少子化の齎らす影響には計り知れないものがある。この際、実効のある思い切った子沢山支援と少子化対処策を進めねばなるまい。各国の人材確保の努力をよそに、十万人の水準に達した留学生を殆んどそのまま帰国させているような外国人受入れ政策も見直すべきであろう。
 経済活動が沈滞する国も美しい国とは云えない。一番気になるのは人口減であり、それ自体の対策も重要であるが、その効果が現れるには時間が掛かる。その間は、物、金、人の総ての面で国際交流を促進し、広い世界全体を活動の場として行くことに尽きる。近隣諸国との関係の抜本的緊密化を含め、各国に受入れられ易い対外姿勢が重要になる。
 世界のため大事だと信じることを発信し、推進し続けることも必要ではないか。平和・軍縮、エネルギーや環境保全、相互理解と国際協調の精神等は、日本独自の貢献が期待出来る、しかも国外の識者の共感を得やすい普遍性のある分野ではないか。
 これらの総てを満すことが出来るか否かは日本次第である。悪魔は狭い処に住むという。迷路に踏み込むことなく、目標に向って直進したいものである。

初孫

「お母様、あなたの初孫がやがて生まれる予定です。」と知らせを受けたのは、リリハメルのオリンピックが終わり、その流れの忙しさもようやく収まった頃だった。アレ?娘は日本からオリンピックに来ていたし、初めてのクロスカントリースキーもしていたではないか。一緒に撮った写真を出して見たけど、一向に変わりなしの娘がそこに楽しそうにいる。結婚したのだから、不思議は無いものの、狐につままれた様だった。思い返せば、娘は子供の出来たことを告げたく、私のそばに何回もきたものの、オリンピックと言う大きなスケシュールの渦に飲み込まれたのかもしれない。もしかすると、健気な娘はそのことも充分承知で顔を見せてくれたのかもしれない。序々に高まるうれしさの中で娘を思い遣った。そういえば、日本から来られた連盟の旧知の役員の方がしきりにおめでとうとおっしゃったのを思い出した。私は当然、日本選手の頑張りに対してのものとしか思わなかった。
 いよいよ私もお祖母さんになれる!うれしい!どんなお祖母さんになれるの?しかしその前に娘はお産に立ち向かわなくてはならない。お腹も大きくなれば、リンクに立てなくなるだろうし、お弟子さんをどうするのだろう。婿さんは頼りになるのか?次々に心配が浮かんでくるが、勿論私は一緒に居てやれない。幸い娘がお腹のこどもに首っ丈、どんどんとゆったりした母性が窺えるようになっていった。婿さんも充分頼りになっているようだ。娘と私はFAXをしきりにやりとりした。娘が「お産のとき誰が一番頼りになるの?」と尋ねてきた時、「お医者様、そして夫です」と即答した。「私もそう思うから、安心して。」と返事が来たとき、私は娘がどんなに心細かろうと遠く北欧から心底詫びた。

70代は様々

 70代に突入したての、新米である私が70代を一括りにしているのでは決して無い。
 私たちは戦前、戦後を通して二分された世代かもしれない。
 教育、文化、家族制度、上下の関係、マナーなど、良しとされたことはほとんど否定され、不確かな情報と教育のなかで、右往左往し、青春どころか飢えと悩みの波に揉まれ、逞しく戦後を受け入れ成人したグループと、貴方達は何も分っていないと言われながら過ごしたグループが混ざり始めている70代である。

 勿論第2グループの私も疎開経験あり、日本中がとことん貧乏で、物資のない暮らしをしたわけで、終戦時が小学4年生。
 私の姉は昭和4年生まれ。戦争中は父の留守宅で、母を助け、女学校では兵隊さんの被服を率先してミシン掛けをし、勉強を忘れず、頑張っていた姿は今も覚えている。その後苦労の学生生活を送り、女医となり、結婚、3人の子供を得て、誰が見ても多忙ではあるが、羨ましい様な意義ある生活を送った。
 しかし姉は、事あるごとに、いかに自分だけが苦労し、困難であったか、自分は理不尽な目にあったかを繰り返した。そして最後にきまって、M子になんか分らないことよ、と結んだ。

 兄は8年生まれ。大切に育てられていた。幼稚園のころの兄は大変食が細く、母の悩みの種だった。
 或る日の午後、襖越しに母が兄を養っているのが見えた。母は小さなお茶わんを持ち、スプーンで兄の口に入れようとしていた。褒めたり、励ましたりしていたが、兄は口を閉めたまま、首をふる。2,3回やりとりしていたが、突然母は、お茶わんをぽんと投げ出し、両手で顔を覆い、声を上げて泣いた。私ははっとなり、大変な事を見たような気がして、そっと離れた。
 終戦の年、いよいよとなったので、兄と私は二人きりで父の実家へ疎開した。すでに逞しくなっていた兄は田舎にとけこみ、家の前の火の見やぐらにのぼり、川で泳ぎ、すごした。

 私はすぐホームシックになった。学校では、髪の毛が茶色い、色が白い、目が青い、スパイだといじめられた。たしかに毛は真っ黒ではなかったが、目は普通の色だった。しかし子供達の疎開っ子を排除する気持は激しかった。
 私は母に葉書を送った。文章は出発前の約束どおり、悲しいことや、心配をかけることは書かなかったが、涙の雨マークをたくさん書いた。疎開先の大人たちへの配慮だった。母はどんな気持で受け取ったことだろう。

 もし姉が生きていれば、私たち三人は今揃って70代だ。

70代のシミ取りツアー

 広島の心石先生は私の夫の中学からの親友。私たちが外地にいたときも、ご夫婦で尋ねてくれた仲である。心石先生が広島市民病院の形成外科部長を引退されて後、市内の中心で心石形成外科を開業された。
「お祝いはいいから、来いよ、シミをとってやるから」と連絡を受けた。
 夫は私の眉の上にある大きな濃いシミを指差し「取って貰ったらいいよ」といった。ああ、夫は長年私のシミを見ていたのねと、当たり前のことながら、現実を突きつけられたような気がした。
 私は少し悲しいような気もしたが、伺うことにした。
 そんなある日、私は夫のこめかみに少し膨らんだシミを見つけた。

 亡くなった医者の姉が、シミは大丈夫だけど膨らんだり大きくなったりしたら要注意、と言っていたのを思い出した。そのときから私は積極的に広島行きの日程を調整した。勿論、心石先生にも、こっそり夫の膨らんだシミのことを伝えた。

 開業まもないクリニックはきれいで、めずらしい機械があちこちに置いてあった。看護士さんたちも明るく、楽しそうで、遊びに伺ったと錯覚するようだった。その流れのまま、夫は治療室に残り、私はこわばりながら外へでた。
 まだ声も、笑い声もきこえる、やがて治療室のドアが開くと、心石先生は「何でも無い」とおっしゃってすぐドアが閉められた。室内の声は、何もなかったように続いた。
 ありがとうございます! 力が抜けていくのを感じながら、うれしさがこみあげた。今度はわたしの番。

70代の経験

 私は70歳になったのを機会に、東京都で、70歳以上の人の為のシルバーパスという、都営地下鉄、都電、都営および私営のすべての路線バス用の年間パスを入手しました。私はこの日を待って、バスを存分使えると張り切ったのですが、バスへ乗車の時今まで感じたこともない、老人に対する表情を受け、がっくりしました。

 しかし持ち前の好奇心と未だ捨てたものじゃない、社会の一員であることにまちがいないんだし、の気持ちに押されて、都交通局で募集していたモニターに応募しました。
 日が過ぎ、手を握り締めるような気持で返事を待ちました。我ながらモニターになることに、これほど、執着しているのかと苦笑している自分もありました。採用は籤引きかもよと囁く自分も居ました。
 やがて、あなたはモニターに登録されましたという通知があったとき、心の底から、うれしく、感謝しました。私ははっきり社会の一員まだ役に立つことが出来る証明を頂いたと思いました、だけど、こんな気持今まではなかったのに。

今日この頃

 毎日忙しさに追われる様な気分で過ごしていた日々から、ゆったち時が過ぎるように感じ、時々不思議な気分になる。
 偶然出会った人に大変親しみを感じたり、旧い知り合いや、お友達に会いたくなる。昔住んでいたところを見に行きたくて、うろ覚えの番地を歩いてみる。かと思うと、ディスニーシーの楽しさに夢中で一日を過ごし、冬にはスキーで山坂を滑っている。
 勿論以前より疲れを早めに感じ、このごろ物事に執着しなくなったと思っていたら、どうも根気が続かないのが、原因らしい。