近頃、私たちはこの先、何処でどうやって暮らすのだろうかをしきりに話題にした。
勿論話題を持ち出しては、引っ込めているのは私。前回のようにどちらかが、足を痛めたらどうするかが、問題だった。階段にお尻をついて降りたらいいわと思う日もあれば、ロープで腰掛けを吊り上げるべきか、真剣に考えた。とうとう、高齢者ホームのたくさんある熱海へなんとなく様子を見に行くことにして、私は先発隊となって一人で出掛けた。
熱海の駅はいつもように、旅行客が行き交っていた。私はあきらかに、その人たちの外にいた。緊張し孤独だったし、怖れも感じていた。私は凛々しいはずの先発隊、希望を探索に来た先発隊、未だ何も決まっていない、下見の下見と自分に言い聞かせはしたものの、いっこうに士気が上がらない。市内をバスでめぐり、所々でおりてみた、もうその頃は気分も立ち直り、持ち前の、好奇心の塊になっていた。外からの住まいの様子、そこから外出される方の衣服や履物、携帯品、寄られる場所、町との関わり、コンビニの品揃え、コンサートや催し物、お医者様、外の温泉施設とプール、坂道、乗り物と料金など、知りたいことを見て歩いた。夕方、駅に戻った私は東京行きの電車を見つけた途端、待って!と電車に呼び掛けていた。私はひたすら家に帰りたかった。
高齢者ホームの良いところはたくさん有る様に思った。うまく出来ていなかったのは、自分自身の考え、殊に心構えを纏めていなかった事だった。
帰宅後、夫は何かいいことがあった?といつもの調子で尋ねた。こんな無邪気なこと言っていられるの?私本当に泣きたいほど大変だったんだから。何も大変なことはなかったはず、希望通り熱海に行き、希望通りのことをしたんだから。涙はなぜでたのだろう。
このことを機会に探し熱はしばらく沈静した。
私たちは出来るだけこの家に住むことにした。この家が終の棲家に出来ないときは、自分たちの意思で探し、決定しようとだけ決めた。
私たちは平成元年にようやく、自分たちの住まいを作りはじめました。
夫の同級生が雑談中、「それでお前のところの家はどうした?」と尋ねてくれたことがきっかけだったかもしれません。彼は「いや未だだ」の答えを聞くや否や、「それはダメだ、やれよ」と心配してくれました。
家ができた時、叔母たちに喜んでもらおうと報告しました。
「まあ、なんで階段で上る家なんか作ったの? 私は寄せてもらわれんよ」
叔母たちは皆大変元気で、私たちの世話をしてくれていましたが、考えてみれば80近かったのです。
私たちは沈みました。小さな土地の有効利用に終始し、一生懸命取り組んでいたころが、ぼーっと走馬灯のように浮び、そして私たちの行く末を想いました。
しかし初めての家はうれしかったし、快適です。細かく注意を払っただけ、小さくとも希望が満たされていました。また、将来の高齢者二人用とも見えなくはなかったのです。階段をのぞいては。
夫がふとした弾みでアキレス腱を損傷し、一ヶ月の間自宅のベッドで過ごすことになりました。
階段で上がる小さな家の間取りは、一階にベッドルーム、書斎、納戸、お風呂、トイレ等があり、二階にダイニングとキッチン。
毎食、二階から食事を運び、飲み物を運び、ベッド脇の小テーブルで食事をしました。どんなにお皿を変えようと、テーブルのレースを変えようとも、狭い二つのベッドの間でしかありません。見舞いの家族も居心地が悪いし、それに私がちょっと休めません。
完治したのをきっかけに、私たちは学生生活のように、ベッドルームと書斎を二人で分けて、一人一部屋にベッドと机を持つことにしました。
これはその後の私たちの生活を画期的に進化させてくれる第一歩となったのです。
皆様はどうされていますか? 住まいに関わるアイデアなど、どんどんお寄せください。