娯楽/Recreation

サンフランシスコの結婚式

2007.11. 木村 美智子

 8年前当家に2か月ホーム・ステーした青年(第1号米ペンシルヴァニア大マスター)から4年前の夏突然、結婚式とパーティーへの招待状が舞い込んだ。外国人の結婚式なんて二度とないチャンスと思い主人と参加した。父上がピアノを弾くと聞いていたので、メールで打ち合わせの結果、前夜祭で父上が主人のヴァイオリンと易しい「Home Sweet Home」(埴生の宿)の合奏、私とはエルガーの「愛の挨拶」を連弾することに決まった。
 もう肌寒い9月26日夜、郊外の(父上の友人の)豪邸のお庭の木々はIlluminationで美しく飾られ、所々に重油のストーヴ。華やかにGarden Partyが始まり、中ほどでお声が掛かって合奏が始まった。二番目に、父上がメロディーを私が伴奏で弾き始めると客間に入りきれない人は隣の部屋や庭の窓越しに耳を傾けてくれた。二人で気持ちよく弾き終えると、父上がニッコリ大きな手で握手を求めてくださった。皆さんも暖かい拍手。
 言葉は通じなくても心は通じる、と感激した。
 贈り物は新郎新婦の母上には私の母が残した手彫りの松竹の鎌倉彫。外国人はその時しか礼を云わないと聞いていたのに、帰国後のXmas cardにも鎌倉彫の礼が書いてあった。

 翌日の結婚式は市内のクラシックな木造の教会で厳かに。披露宴は郊外のゴルフ場コテージで。羨ましかったのは、スピーチ・食事後のダンス・パーティで花婿と母親が、花嫁と花婿の父が楽しそうに、何回もダンスしていたことだった。

父の思い出 I

 私の小さい頃の父はいつも家にいた。お父様は?というと「お勉強」と小さな声で母が答えるのが常だった。私たち兄妹は静かに遊ぶしかなかった。
母の従姉妹達によると、当時の父は真面目で、勤勉と言う字が洋服を着ているような人だったそうだ。まさに青白きインテリで、しかもご挨拶は小笠原流だったと口々に笑う。最近、父の著作の復刻版が、兄の手を経て、出版され、父の労作と「お勉強」の意味を改めて知ることとなった。
 姉は静かに過した日々を深刻に、又緊張の連続だったと回顧した。私は末っ子の特権で、父の息抜きだったようだ。皆の評をよそに、父は3歳のころには、イタリア語でサンタ・ルチアを歌っては、教えてくれた。あるときは、父母の結婚式を司式してくださった、牧師さんの話。牧師さんは赤貧洗うが如し、の生活をされていた、立派な方で、当日着て見える、洋服のことも心配であったが、何処からか工面されて、きれいなモーニングを着てきてくださったそうだ。父母はめでたく結婚式を挙げていただき、その日以来、父は牧師さんをグットモーニングと呼ぶようになったそうだ。父は子供と言うものは、話しの事柄をどのぐらい理解できるものなのか、と興味を持っていたふしがあった。

 

父の思い出 II

 父が退院してきた。小学校へ入学間もない娘は、私が父の部屋に入ったきりの寂しさから、一過性ではあったが、突然黒板の字が見えなくなると言う、かわいそうなアクシデントを起こしたりした。しかし、皆の協力で、父は少しずつ快復に向かっていた。
 そんなある日、「お父様歯を磨いて上げましょう、気持ちがいいわよ。」と言ってみた。父は恥ずかしがって、歯をはずさない。「私も入れ歯がありますから大丈夫よ。」と言うと、しぶしぶ上の歯をはずし、差し出したお皿に乗せた。私は看護婦さんがするようにガーゼを被せて、洗面所に立った。

 きれいに磨いた歯を父がつけると、いつも以上に元気に見えた。「お父様、もう一つもどうぞ、きれいにしますから。」「いやもう、大丈夫だ、充分だから。」「そんなこと言わないで、簡単ですから。」と突然 病人の父が笑った。本当に心から笑った。「あとはお父様の歯、取れない歯。」「えー?入れ歯じゃないの?」私たちは涙が出るほど笑った。誰も知らない懐かしい思い出。